地名(町屋)の由来

町屋の地名ですが由来は不明です。諸説あるのですが、一つは古くから町が開けていたので町屋とついたという説。荒川区域の江戸時代は農村地域が多かったので、町屋地区に町が開けていたのと疑問に思う人もいるかもしれません。西日暮里の開成高校の近くや夕やけだんだんの所に縄文、弥生の遺跡があったことは知られておりますが、みな高台と海(中世以前は海が深く入り込んでいた)の境界です。低地のど真ん中の町屋に人が住み始めたのは新しいのでは無いかと思う人は多いでしょう。しかしながら町屋4丁目の実揚遺跡は弥生~古墳時代の遺跡なのです。

今は真っ平らに見える町屋地域ですが元の地形としては微高地が点在し、その微高地に古代人の住居が開け、古代の条里制(古代の土地の区画方法)が行われていた可能性のある地域でもあり、鎌倉時代の板碑(死者の供養のために造られた石塔)がたくさん出土するなど古くから集落が出来ていたので町屋と呼ばれた可能性もあります。

もう一つは良質の土が取れたので真土野(まつちや)と呼ばれたものが「まちや」になったという説。三河島駅の近くに廃校になった真土小学校があるように、真土という地名もあり、荒川が上流から運んでくる肥沃な土があったからこそ、町屋周辺では三河島菜や三河島枝豆、荒木田大根等の野菜も良く育ったのでしょう。

町屋の枝豆は半兵衛豆とも呼ばれ、年間2万束を市場に出荷していたといいます。普通の枝豆の倍の大きさがあり、美味と評判が高かったといいます。台東区には待乳山(まつちやま)があり今戸焼の産地でこれも荒川区の真土と同じ意味があるのでしょう。
また荒木田土と呼ばれる粘土質の土は壁土や煉瓦の製造に適したブランド土で相撲の土俵の盛り土にも使われています。現在は千葉県我孫子市の利根川から採取されるが、もともとの主産地であった荒木田の名前を冠しています。真土野も捨てがたい説です。

荒川区の他の地名もそうなのですが古い地名の由来など簡単には定義はできません。町屋は古くから集落のあった肥沃な土地であったから町屋という地名になったのは間違いありません。

町屋の歴史

町屋の枝豆は半兵衛豆とも呼ばれ、年間2万束を市場に出荷していたといいます。普通の枝豆の倍の大きさがあり、美味と評判が高かったといいます。台東区には待乳山(まつちやま)があり今戸焼の産地でこれも荒川区の真土と同じ意味があるのでしょう。
また荒木田土と呼ばれる粘土質の土は壁土や煉瓦の製造に適したブランド土で相撲の土俵の盛り土にも使われています。現在は千葉県我孫子市の利根川から採取されるが、もともとの主産地であった荒木田の名前を冠しています。真土野も捨てがたい説です

いつから人が住み始めたのか
町屋には弥生時代より人が住んでいた事が遺跡により証明されていますが、ある説によると町屋の住民の遠祖は南千住から移住したという伝承があります。

今から1200年前、坂上田村麻が奥州平定した際に従っていた野武士数名が南千住の荒川工業高校付近に土着したといわれています。源義家が奥州征伐の際に渡河を助けたのがこの土着民と言い、義家が目印の旗を立てた南千住の若宮八幡神社を土着民が祀って守り神にしたといいます。若宮八幡を信奉する住民達は南北朝時代の末に町屋に移住し町屋住民の遠祖になったという説があるそうです。三河島町郷土史は町屋住民の移住の理由は謎としています。素盞雄神社の宮出しを町屋住民が行う点については町屋の原住民が南千住から移住したからということも考えられますね。

中世より町屋村は存在し、江戸時代は江戸の近郊農村でした。三河島菜、三河島枝豆、荒木田大根などの江戸野菜の産地でもありました。隅田川に近い荒木田の原はレンゲ草が咲き乱れ美しかったそうです。今は町屋駅の周辺が栄えていますが、元々の中心は町屋二丁目あたりの慈眼寺などがある辺りで江戸道が通っていました。いまの町屋銀座の通りが江戸道で三河島の六地蔵の方に抜けていました。

現在の行政区画の「町屋」が当時の町屋村を表すものではありません。現在の町屋4丁目の一部、5丁目の大部分、6,7丁目の半分は元々は下尾久村でした。江川堀という用水路がもともとの町屋と尾久の境界線で江川堀は暗渠になりましたが遊歩道や道路になっていて現在もたどることができます。

町屋は素盞雄神社の町域なのですが、上記の地域は現在の住居表示が町屋にもかかわらず、尾久八幡神社の氏子町域となっているのはもともとは下尾久村だったのです。荒川区になってからは尾久町10丁目になりました。

町屋村から現在の
町域になるまで

尾竹橋通りに一本松というバス停がありますが、ここには一本松と呼ばれる大木があって町屋村と三河島村の境界でした。一本松の裏手辺り、第七峡田小学校や荒川五中がある町屋8丁目の大部分や1丁目の一部は三河島村で荒川区になってからは三河島町9丁目でした。

いまは都電の線路が住居表示町屋と荒川の境界になってますが、第九峡田小学校や荒川四中の近くまでの荒川6丁目の一部は町屋村でした。現在の住居表示町屋の範囲と元々の町屋村の範囲の違いがイメージ出来たでしょうか?

1889(明治22)年の市制町村制によって、町屋村は三河島村と合併して三河島町大字町屋となります。
1932(昭和7)年に4町合併で荒川区が誕生すると町屋は荒川区町屋1~3丁目となりました。

1961(昭和37)年、自治省は荒川区を住居表示モデル地区として地盤整理を行い、荒川区三河島町は荒川区荒川に、町屋も尾久町10丁目や三河島町9丁目を併せて現在の町域になりました。

明治20年に火葬場ができます。ルーツは小塚原にあった火葬寺が火葬場になったものが移転したもので、日暮里の火葬場を併合して一つの火葬場になった。

大正2年に王電が開通すると火葬場に来る人が電車に乗ってやってくるようになったが普段は2~3人しか乗客が乗ってなかったと言います。今の町屋二丁目が町屋、町屋駅前が稲荷前、荒川七丁目が博善社前という停留所でした。

千代田線開通からの変貌

昭和44年に地下鉄千代田線が開通すると、都電、京成線の乗換駅だった町屋の利便性は更に向上すると共に、商業地、住宅地としての価値が高まってゆきます。平成に入ってゆくとかつては町工場が建ち並んでいた風景が住宅やマンションに変わってゆきます。センター町屋、マークスタワーなどの再開発も進み、街の様相や人々のライフスタイルも変わりつつあると思います。

町工場や伝統工芸、産業が廃れるに任せるのでは無く、稼働していない町工場を芸大の学生や芸術家の卵たちに格安に貸して、かつてはたくさんあった荒川区の自転車産業や家具産業とコラボして、技術力と創造性をプラスして付加価値のある製品を作り出し、産業の新たな発展、街の新しいカタチなどを模索してみるのも面白いかもしれません。

もんじゃと町屋

荒川区全体で「もんじゃ」はよく食べられているのですが、町屋にはもんじゃ屋さんがたくさんあります。
閉店してしまいましたが信八屋のように昭和30年代から脈々と営業を続けてきた店もありますし、駄菓子屋でも食べられてきて独特の文化があると思います。

月島は一つの通りに連続してもんじゃ屋さんがたくさんありますが、町屋はお店が散在しているのでもんじゃ屋さんがたくさんあることが知られていないので知名度がいま一つ上がっていきません。しかし、観光地としてのもんじゃではなく住民の生活に根付いたもんじゃ文化を多くの人に知ってもらうためにも町屋をもんじゃタウンとして盛り上げていけたら面白いですね。

交通の要衝

町屋の基幹となる道路としては両側2車線の尾竹橋通りと、都電沿いの道が比較的広く、通り沿いに商店が連なっています。しかしそれ以外は細い道が多く、路地が枝分かれのように分岐しています。これは町屋がムラからマチへ変貌するにあたって広い道や計画的なまちづくりが出来ずに今日に至ってきたことを意味しているのではないでしょうか。

かつては都市の周縁として斎場や下水処理施設、、、様々な施設が置かれた町屋周辺ですが、都市は瞬く間に拡大し、かつての周縁は都市の真ん中にあります。地理的にも荒川区の真ん中にあり交通の要所でもある町屋はもっと発展するための伸びしろを持っていると言えるでしょう。

町屋の人達は古くから受け継ぐ伝統や文化を矜持として街を更なる発展に導いて欲しいと思っています。